柏原市の“なぜ”を徹底紹介!柏原市の歴史&ぶどう農園ガイド
  • エリア
  • 大阪府
  • 柏原市
日本一古墳がある町・柏原市
大阪で古墳というと、皆さん有名な大山古墳のような前方後円墳を想像されると思います。
しかし、柏原市にあるのは直径20mほどの「円墳」や、斜面を掘ってつくった「横穴」です。
横穴古墳
柏原市内には約1400基の古墳が存在しており、市町村単位で見たときの市内の古墳の数は、柏原市がおそらく日本一。
大都市・大阪からほど近いこの場所に古墳が日本一存在しているなんて、驚きですよね。
横穴古墳
横穴って何?
柏原市内に多く存在する横穴。
一体何のためにつくられたと思いますか?
私は最初に見たとき、この中で生活するための“住まい”として使われていたように感じたのですが、実際はなんと‥“お墓”!
お墓を作るために、斜面を掘ってこれだけ大きな空間を作ったというので驚きです。
古墳から読み解く柏原市の歴史
古墳や横穴がたくさんあるということは、それだけ沢山の人が埋葬されているということ。
まだ分かっていない部分も多くありますが、柏原市の古墳や横穴に埋葬されている人骨には、中国大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人のものも含まれていました。
どうして渡来人の墓だと分かるのか。それは、古墳に人骨と一緒に埋葬される副葬品から読み解くことができます。
副葬品は基本的に、埋葬される人と縁が深い物が選ばれます。
明らかに日本の物では無い髪飾りや土器などが一緒に埋葬されていると、それは日本人では無く渡来人の墓だと特定できるのです。
しかし、多くの古墳が盗掘されているため、持ち去られてしまった副葬品もあり、全ての墓の被葬者を特定するのは難しいです。
では、なぜここ柏原市には多くの渡来人がやってきて生活していたのか。
疑問ですよね。
そこには、柏原市の地理的要因が大きく関わっています。
副葬品
副葬品
大和川から読み解く~なぜ柏原市には多くの渡来人がやって来たの?~
大阪府には、大和川という大きな川が流れています。
この川は現在、柏原市から西に向かって堺市の方へ流れていますが、これは約300年前の江戸時代に付け替えられたもので、かつては柏原市から大阪城のある北西へ流れていました。
柏原市から大阪湾に向かって流れ出る大和川の様子から柏原は「大阪の喉元」とも呼ばれ、大阪と奈良を結ぶ中継拠点として栄えていました。
飛鳥・奈良時代に大和川を上って交易を行った渡来人たちは、ここ柏原市で船を下りたり、荷を降ろしたりして、人やモノがこの地に集まるようになっていったのです。
古墳の町からお寺の町へ ~密集した寺の秘密~
河内六寺とは
柏原市の山沿いには、かつて6つの寺が並べて建てられていました。
北から順番に三宅寺、大里寺、山下寺、知識寺、家原寺、鳥坂寺といい、これら6つをまとめて「河内六寺」と呼ばれています。
特徴的なのは、これらの寺が北からそれぞれ約500mという非常に狭い間隔で並んでいた点です。
寺と寺がこのように近接するのは、当時の都だった平城京でも見られない風景です。
寺は基本的に国による公営の寺と、豪族が建てる私的な寺の2種類でした。
河内六寺のようにとても狭い範囲のなかに、公営の寺を複数建てたり、自身の寺を持つほどの有力な豪族がひしめき合っていたりしていたとは考えられません。
河内六寺が密集している理由
ではなぜ、この地・柏原では、これほど狭い範囲に6つもの仏教寺院が建てられたのでしょうか。
その答えは、この地の人々の仏教に対する信仰心のあつさにあります。
河内六寺の一つ、知識寺の「知識」とは、仏教をあつく信仰する人々のことを指します。
河内六寺は豪族の象徴でもなければ、公営の寺院でもなく、「知識」の人々が建てた寺なのです。
当時の柏原には知識の人たちがたくさん暮らしていたからこそ、このように寺同士が隣り合うように建てられたと考えられます。
また、当時の寺の塔やお堂などは朱色に塗られており、河内六寺も同じ作りで建てられていました。
そのため、このあたりは真っ赤な寺院が建ち並ぶ独特な景観を創り出していたようです。  
伊達政宗もやってきた!なぜか知られていない大坂夏の陣の戦地・玉手山
誰もが知る戦国武将・伊達政宗。実は彼がこの地・柏原を通過していたことが分かっています。
大坂の陣では、1614年の冬の陣、1615年の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われました。
柏原市にある玉手山は、夏の陣の戦地になりました。その際、伊達政宗の軍勢が玉手山に攻め入っています。
これほど有名な戦いの戦地になっていた事実を知らなかった人も多いのではないでしょうか。
重大な歴史がこの地に刻まれているにもかかわらず、かつてあった寺や当時の戦いの痕跡はあまり残っていないため、その事実はあまり知れ渡っていません。
これはとても残念なことであり、勿体無いことだと感じます。
なるべく多くの人々にこのような歴史を広めることも、私たちの活動の目的の1つなのです。
玉手山
大和川の流れを変えた理由
大和川の付け替えは、柏原市の歴史を大きく動かした出来事です。
森林伐採により、大雨の際の川の流量が増加したことや、川の水面が地表面よりも高くなる天井川などの影響により、
現在の大阪市内やその周辺の地域では洪水の被害が増加しました。
そのため、大和川の付け替え工事を行い、洪水の被害を減らそうとする要望があがりました。
しかし、大和川の付け替えによって川の流域になってしまう地域の住民たちからは、当然のことながら猛反対が起こりました。
田んぼが無くなってしまったり、村が分断されてしまったりするからです。
このような反対はありながらも、最終的には幕府の意向で大和川の付け替え工事が行われ、現在の私たちが知る姿になったのです。
大和川計画
柏原市は古墳だけじゃないぞ!柏原市にある!絶対見るべき近代以降の建築物
天理教北阪分教会
天理教北阪分教会
天理教と言えば奈良県天理市。その分教会がここ・大阪府柏原市にもあるのです。
実は、天理教北阪分教会の建物は、もともと天理教の分教会として使用するために建てられたものではありません。
この建物は昭和初期に、紡績業で財を成した人物が建てました。
彼は建築へのこだわりが強く、柱をなくして金網とコンクリートを組み合わせてつくる自由な形態の建築物の研究をしていたと言われています。
しかし、彼が研究していた柱を使わない建築物は、地震の多い日本では耐震性能の問題であまり普及しませんでした。
この建物はそんな彼が西洋の建築様式に憧れて実現させた、3階部分に8角の塔屋を乗せた和洋折衷様式です。
平成16年には教職舎・離れ・倉庫・欄干が国の登録文化財になりました。
そんな建物が後に天理教の分教会となったのですから、とてもユニークですよね。
築留二番樋
築留二番樋
もともとは大和川付け替え工事の際、新大和川から旧大和川の流域に農業用水を引くために設けられ、明治時代末期頃にレンガ造りのアーチ型樋門に造り替えられました。
アーチの最大幅は157cm。
レンガは基本的にイギリス積み(一段ごとにレンガの短い方と長い方を変更する積み方)を採用し、面壁の下半のみ長手積み(レンガの長い方のみを見せて積む方式)になっています。
天理教北阪分教会と同じく、平成16年に国の登録文化財になりました。
カタシモワインフード貯蔵庫
カタシモワインフード貯蔵庫
カタシモワインフード貯蔵庫
明治以降、全国規模で生産された柏原の特産品である「ぶどう」でワイン醸造した貯蔵庫です。建物は当時の面影を保ったまま、現在も活用されています。
平成17年に国の登録文化財に登録されました。
この建物内に展示されているワイン造りの道具のなかに、日本酒造りに使われていた圧搾機があります。
柏原市でのワイン醸造に日本酒醸造の技術が活用されていたことを示すもので、日本酒造りの設備がそのままワイン製造に転用されていたことがわかります。
そうした歴史を物語るこれらのワイン造りの道具は、平成22年に柏原市の民俗文化財に指定されました。
近くにはおしゃれなワイン直売所もあるので、是非足を運んでみてください。
カタシモワインフード貯蔵庫
柏原市の特産品・ぶどうについて知ろう!
なぜぶどう?なぜ柏原市?その理由に迫る
柏原市でぶどう栽培が行われた背景には、大和川の影響で風が抜けやすいことや、雨が少ないことなどの要因があります。
また、当初は食べるよりも「日除け」として使用されたというので驚きです。
江戸時代は、このように食用でないぶどうが主流だったようですが、その「食べ物」としての価値は次第に高まっていきました。
ぶどうを軍事利用!?戦時中もぶどう栽培が衰退しなかったワケ!
戦時中は農業も規制が厳しく、他の果物の多くは生産統制されてしまいました。
そんな中でもぶどう栽培が衰退しなかったことは、柏原のぶどうが現在まで続く特産品となっている大きな理由の一つです。
ではなぜ、戦時中ぶどう栽培は衰退しなかったのか。その答えは、ぶどうの軍事利用にあります。
ぶどうを軍事利用?ピンときませんよね。
私は最初、「ぶどうの蔓をロープとして活用していたのかな?」なんて想像しましたが、実際の用途は遙かに科学的なものでした。
ぶどう酒に含まれる酒石酸という成分が、なんと音波兵器に使われていたのです!酒石酸には音波探知機に必要なロッシェル酸が含まれています。
また、酒石の結晶体が音波を敏感にキャッチする聴音材になることから、潜水艦や魚雷を探知するために使用されたとも言われています。
この時代、ぶどうはぶどう酒にして酒石酸を取り出すために栽培されていたため、生食することはほとんど無かったようです。
私たちが普段美味しく食べているぶどうに軍事利用されていた歴史があるなんて、驚きですよね。
ぶどう農家に聞いてみた!ぶどう栽培のリアル
稲清農園ってどんなところ?
今回インタビューさせて頂いたのは、柏原市でぶどう農園を営んでおられる稲清農園さん。
稲清農園外観
デラウェア・シャインマスカット・巨峰など誰もが聞いたことのある品種から、藤稔・竜宝・ハニーシードレスなどマニアックな品種も含めた計11種ものぶどうを栽培しています。
他の農園はスーパーや市場などへの出荷が多い中、稲清農園は直売所にも力を入れています。
稲清農園に来られるお客様の7割はリピーターで、3割が新規。リピーターの方々に支えられていることが分かります。
昔から支えてくれている地域のお客様に一番に美味しいぶどうを届けたいとの思いがあるようです。素敵ですよね!
直売所に実際に足を運ぶお客様が多い理由は、柏原市へ車で2時間以内にアクセスできる人口が多いという立地の良さにあります。  
ぶどうのお手入れってどんなことをするの?
ぶどうの収穫はぶどう狩りなどからなんとなくイメージ出来ると思います。ぶどうの収穫時期は6~8月。
では他の時期、ぶどう農園では一体どのような業務を行っているのでしょうか。
ぶどうは樹になる果物です。収穫時期以外でも、当前樹は成長します。
樹から伸びてくる茶色い蔓を切り落とし、次の年にまた新しい蔓が生えてくるようにすることがぶどう農園の仕事です。
他にも、樹全体のバランスを整える剪定作業や土作りなどの作業があり、農園は1年を通して非常に忙しいのです。
ぶどうに被せてある謎の紙の秘密と、温暖化の影響
稲清農園ぶどう
樹になっているぶどうの実に紙が被せてある光景は、皆さん見たことがあるのではないかと思います。
私は最初「虫除けかな~」なんて思っていたのですが、これは虫除けではありません。
なんと1枚3役!とっても優秀な紙だったのです。
1つ目の効果は、虫ではなく「鳥除け」。
鳥はとても目が良いので、私も川でお昼ご飯を食べていたら、綺麗に食べ物だけ持ち去られてしまった経験があります。
ぶどうに被せられた紙は、空中の食べ物ハンターたちから美味しいぶどうを守る役割を果たしているのです。
2つ目の効果は「雨除け」。普通の紙だと水が浸透してしまうので、ぶどうに被せられている紙には、ろうで防水効果がかけられています。
ろうが含まれた紙は分解されないので、収穫後は回収する必要があります。
3つ目の効果は「日除け」。果物にとって日差しは除けるべきものではないように感じる方も多いと思います。
もちろんぶどうは植物なので、ある程度の日差しは必要です。
しかし、日差しがあまりに強すぎると逆にぶどうの水分が抜けてしまうため、適度な日除けが必要なのです。
近年の急激な気候の変化は、ぶどう栽培にも影響を及ぼしています。
ぶどうはその土地に合わせて品種改良されているため、異常気象が起こるとその品種は弱点を突かれることになります。
近年は温暖化の影響で、夜でもなかなか気温が下がりません。こうなるとぶどうの着色が上手くいかず、酸味が強く甘みの弱いぶどうになってしまうのです。
生食ぶどうだけじゃない!稲清農園ではジェラートが食べられる!
稲清農園ジェラート
ジェラートを始めた理由は、小粒品種であるデラウェアの単価を上げること。近年はシャインマスカットなどの大粒品種の人気が高く、小粒品種に比べてその商品単価も高いです。
同じ作付面積や手間であれば、より単価が高い商品を作るのは当然のことですよね。
そのため、近年ではデラウェア等の小粒品種の栽培を辞め、大粒品種のみを栽培している農家も多いようです。
そんな中でも、稲清農園はデラウェアを加工食品にして商品単価を上げることで、デラウェアの栽培を続ける工夫をしておられます。
また、現在はジェラートの他にミルクジャムの試作も進めておられるそうなので、デラウェアのミルクジャムが食べられる日も近いかもしれません。
【稲清農園直売所 営業時間】
6月下旬~8月下旬 8:00-18:00
終わりに
柏原市の歴史と農園ガイド、いかがでしたか?
柏原市に刻まれている歴史について知っていただけたかなと思います。歴史を知ると深みが感じられて、町歩きがより一層楽しいものになりますよね。柏原市に実際に足を運んで、その歴史を体感していただけたら嬉しいです。
また、柏原市の特産品であるぶどうについても、「へ~そうなんだ!」という事実が多かったのではないでしょうか。是非皆さん稲清農園の直売所に足を運び、美味しいぶどうやジェラートを味わってみてください。
【参考】